鶴山館の歴史

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明治23年に津山出身の学生4名が本郷区森川町にて共同生活を始め、これが鶴山館の前身となりました。

そして翌年の明治24年、正式に『鶴山館』としての運営がはじまりました。

令和3年は創立130周年の記念すべき年にあたります。

 

1、創立の頃

 維新の功業から10年余り経過した頃、文明の新空気が全国津々浦々に及び青雲の志を抱いて東京に集まる青年がとみに増加した。作州出身者も同様意気揚々と笈を負い立志出郷した。

 ここに作州出身者が、互いに胸襟を開いて善を進め、過を改めもって向上の一路を歩もうと、岸田吟香氏(東京日日新聞編集長)はじめ有志11名が責善会を組織した。時に明治11年7月のことである。この活動は明治14・5年頃中断していたがこれを再興する機運が東京で活躍する郷土出身者の間に高まり、久原躬弦(のちの京都帝国大学総長)平沼騏一郎(のちの内閣総理大臣)等は責善会を改め津山青年協和会として活動を始めた。時に明治23年5月のことである。

 一方、同じ頃郷土出身の学生宮田四八、鈴木寛介、他計四名は本郷区森川町一番地字宮裏に家屋を借りて共同自炊生活を始めていた。

 津山青年協和会はその事業として、寄宿舎創設を決め、適地購入に難渋していたところ旧藩主松平家はかねてより懇意である旧三河岡崎藩主(本多氏)から敷地内にある家屋一棟を購入の上津山青年協和会へ寄付された。津山青年協和会はこの家屋を鶴山館と命名し、併せて館の役員、館の規則を制定した。(第1期) 時に明治24年10月25日である。老男老女を雇い炊事を任せ、宮田四八、鈴木寛介他数名の学生を収容して小さな自治共同生活を始めた。今日まで脈々と続く自治共同生活の濫觴である。

 翌明治25年1月、久原躬弦館長、総裁松平康民子爵、会長昌谷千里他列席のもと第1回盟誓式(入館式)を挙行した。署名した学生は8名であり爾来130年に及ぶ墨蹟鮮やかな巻物仕立ての署名簿は大切に保管されている。鶴山館の宝の一つとも言える。

 しかし翌年には入館希望者が多数であること、建物の老朽なること、設備の不完全なることから郷土出身者、篤志家諸氏に寄付を仰ぎ、古屋を購入し新地(本郷鶴山館の所在地)に解体移転し収容人員を16名とした。(第2期)

 

2、新館建設(第3期)

 第2期鶴山館の建物はもとより宏壮堅牢なものではなく、数年にして朽廃が進んだ。再度、松平家、郷土出身者諸氏、作州一円の篤志家に寄付を仰ぎ、改築に着手し、明治35年12月落成した。他の寄宿舎羨望の新館であった。これにより25~26名収容可となった。

 

3、財団法人の設立

 新館落成後の翌明治36年、松平康民子爵、津田真道男爵、菊池大麓男爵平沼騏一郎等は鶴山館を財団法人とする許可を得た。

 「美作国に本籍を有し又は美作国に縁故を有する東京留学生を寄宿せしめ其学業及品行に付き之を監督する」ことを目的と定めた。

 

4、戦時中・敗戦直後の鶴山館

 大正12年9月の関東大震災にも崖上の臺平館ともどもかろうじて倒壊を免れ、持ちこたえたがその後老朽化はとみに進んだ。創立40周年を迎えた昭和6年には改築を決議したが、当時の深刻な不景気と続く戦時体制への突入で改築は中断したままとなった。

 東京空襲は昭和17年に始まった。この年には、18年3月大学卒業予定者は半年繰り上げて9月に卒業した。鶴山館からも出征して行った。また昭和18年10月には神宮外苑で出陣学徒壮行会が行われ鶴山館館生も参加し、そして出陣して行った。残る館生も学業の傍ら勤労動員、近県への食糧の買い出しで空腹をしのいだ。

 しかしこのように食糧の確保に難渋し、空襲の恐怖にさらされながらも昭和18年、19年にも郷里から新入館生を迎えている。

 昭和20年3月の東京大空襲では本郷も大きな被害を受けたが鶴山館付近は奇跡的にも焼失を免れた。本郷3丁目の交差点から東京湾が望めたと後にOBが述懐している。学業半ばで出陣した学徒で生還した者が向学心抑えがたく鶴山館に戻って復学した記録もある。

 敗戦直後の昭和20年秋にも9名の入館生を迎えている。この混乱した時代にも郷里を遠く離れて東京に遊学する学生がおり、またこれを支える家族があった。明治24年創立以来、今日まで平穏無事な時代は少なく、激動する社会にあって幾多の困難に遭遇し、悩み、苦闘しながらも英知を集め気力を絞り、克服してきた。この間1度の中断もなく、存続してきたこと自体諸先輩の尊い持続的かつ献身的な努力の賜物である。

 

5、美作国出身から岡山県全域へ寄付行為の改正

 創立以来一貫して、鶴山館は東京に遊学する旧美作国出身者に寄宿舎の便宜を与え、人格の陶冶、学問に精励し、社会有為の人材の育成に成果を挙げてきた。しかし、この間の内外の環境の激変に対処するため、昭和33年寄付行為を改正した。旧美作国に限定せず、広く「岡山県に本籍又は縁故を有する在京学生」とした。

 

6、鉄筋コンクリート造の鶴山館(第4期)の建設

 明治35年建築当初は他県人の羨望の的であった鶴山館も半世記を経て昭和初期の改築論議は中断されたまま、戦後を迎えた。老朽化はその極に達し、化け物屋敷の観を呈するまでに朽ち果てていた。かろうじて応急修理を施し学生の収容を維持していた。多年の悲願の実現に向け昭和34年4月着工、11月に完成し、翌昭和35年4月入館した。

 鉄筋コンクリート4階建て、当時の寮としては画期的な全館個室であった。また敷地は借地であったものを購入した。森川町一体は武家屋敷であり、鶴山館の土地は三河岡崎藩の本多屋敷跡の一部と福山藩阿部屋敷跡の一部にまたがって借地していたものである。

 資金調達は、住宅金融公庫からの借入金、岡山県、津山市、5郡町村会からの出資金、OB他篤志家からの暖かい浄財で賄った。

 

7、盟誓から宣誓へ

 明治24年以来盟誓式(入館式)で「鶴山館誓書」に誓い、毛筆で巻物署名してきた。この誓書の内容は当時の道徳、国家意識、国民意識を反映したものであったが、この間の社会の激変に対応するため、改めて「宣誓文」とした。昭和41年度入館生よりこの「宣誓文」を用い、かつ従来の「盟誓式」を改め「宣誓式」としている。

 「忠孝を重ジ・・・報国ノ精神ヲ養ヒ」は大きな改変がなされているが各人が属するそれぞれの社会において「有為なる人材となることを期する」点は同一である。

 

8、保谷(現西東京)鶴山館への移転(第5期)

 昭和34年完成した鉄筋鶴山館は30年足らずで配管、配線、など老朽化と破損が著しくなっていた。種々論議の末昭和61年暮れの役員会で本郷の土地を売却して郊外に移転新築を決めた。

 移転に際して、創立以来百年になんなんとする歴史と伝統を踏まえながら建物のみならず館生の生活をも一新しようとするものであった。

①館生の自治共同生活の充実を図り、21世紀へ向けて新しい歴史と伝統の基礎作りをする。

②生活の質向上に資するよう個室を3畳から8畳へ拡大

③教養講座の開設

④フットサル・テニスコートの設置

昭和63年3月完工し、直ちに移転したものである。すべて自己資金で賄うことできた。

 

9、公益財団法人への移管

 財団法人鶴山館は法人制度改革に伴い、平成24年4月に特例財団法人から一般財団法人に移行した。

 さらに平成25年12月に東京都から公益財団法人として認定され税制上の優遇措置を受けることができるようになった。

 創立以来130年の歴史を刻んできた鶴山館は、明治、大正、昭和、平成、令和と5代に亘り「有為な人材」を社会に送り出してきた。その総数1200余名に及び、さらに次の時代に続いて行く。

ホームページ「鶴山館の歴史」(平成30年中秋記述)に鶴山館創立 130 周年に当り、一部加筆修正したものである。(令和 3 年初夏)

以上